汚部屋の掃除

汚部屋を掃除している記録

雑記 駄菓子屋ゲームセンター

 義理の母が亡くなった。優しい人であった。
体調を悪くされる前に、もっと沢山話を聞いておけば良かったと、今になって悔やまれる。また、私の実父は70代で亡くなってしまったため、私の残り時間もあと20年程度かと暗い妄想が脳裏をよぎる。誰に宛てるわけではないが、まだ私の記憶が残っているうちに、昭和の記憶をネットの片隅に書き残しておくことにしたい。

 さて、私も年を経たせいか、子供時代の記憶に残る原風景が恋しくなる時がある。
今の時代は便利なもので、街並みを閲覧することができるブラウザ上のソフトウェア(ストリートビュー)を利用し、子供時代に生活していた、宇都宮市若草町(現在の宇都宮市若草〇丁目)の今の風景を閲覧していた時の事。
 昨年(2021年)、余暇時間の合間にストリートビューを利用しながら思いにふける中、数年間に訪問した店舗が閉店していると思われる様子を確認した。

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 画像が荒くはっきりとしていないが、入口のガラス戸への貼紙には、手書きで「ありがとうございました!」と読み取れ、撮影日2018年7月とあることから、この撮影の少し前に閉店したことが推測できる。
 ガラス戸には「だがし屋 ららかわ」とある。(私たちは、荒川駄菓子店なので「あらかわ」と認知していたがどちらが正しい名称かは不明である)

 さて、『駄菓子屋ゲーセン』を知らない世代が閲覧する場合を考え補記すると、子供の小遣い(100円程度)で購入できる駄菓子(5円の飴・10円のガム・30円のアイス・・・)を品ぞろえした駄菓子屋に、ゲームセンターから現役を退いたであろう、業務用のビデオゲーム筐体を併設している娯楽施設である。言い換えれば、私たちにとって、現代のディズニーランドであった。

 ここに、私の原風景である、駄菓子屋ゲーセン「あらかわ」についての記憶を綴る。
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 これは実父を亡くした当時、次は自分が亡くなるであろうことを考え、まだ健康なうちに、私が子供時代を過ごした栃木県宇都宮市へ、2017年に感傷旅行をしたときの記録も兼ねている。そして栃木県は関東北限の辺境の地、悪意を持つ方からは、娯楽も文化も何もない圏域であるとの酷評を叩かれるが、今となってみれば、私はそののどかさが大好きである。
 今の私の居住地からは遠方であるし、知人親戚もこの地域にはいないため、おそらく人生最後の訪問となるであろう。

 宇都宮市到着後、まずは、私が住んでいた借家を探すが…発見できず。
昭和50年代の若草町周辺は水田が広がっていた。バイパス工事が着工された時期に、住居表示が変更(若草町〇〇番地 → 若草〇丁目〇番〇号)された記憶がある。このため、住んでいた住所地番が現在では分からない。(市役所の住居表示担当にでも確認できれば良かったが、あいにく日曜日は市役所も閉庁であろう)
 昭和58年に宇都宮市から転出した後、おそらく、再開発等の理由により住んでいた借家が取り壊され、区画整理後に別の建物が建設されてしまったものと思われる。
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 私が3歳の時に、はじめて一人で買い物をしたのは、このお店だったような気もするが…(摘果時の小さな林檎をいただいた記憶が鮮明に残る)お店の方にちょっとした買い物ついでにお聞きしたところ、昭和40年代には先代が経営されていたそうなので、多分この店のような気もするが、自信はない。
ちなみに、変なおじさんが聞き取りして通報されるといけないので、コミュ力が高い妻に聞き取りしてもらったのは情けないが、正しい判断であるとは信じている。

 私の住んでいた場所を特定するため、通っていた細谷小学校を起点に住んでいた場所を探すことにする。少子化が著しい昨今であるが、幸い小学校はまだ存在していた。
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 細谷小学校を起点とすると、若草町と反対方面の、小学校の隣にも駄菓子屋ゲーセンがかつてあった。
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 2017年にはご覧のとおり廃業してしまっている。
かつては、店内と軒下コンクリート床の(画像の自販機等はなかった)ところにテーブル筐体が複数台と、ムーンエイリアン(セガ)、シェリフ(任天堂)のアップライト筐体があった。
 ここで昭和56年(1981年)くらいに遊んでいたラインナップが、ルパン三世タイトー)、SOS(ナムコ)、ニュージグザク(C)、オズマウォーズ(SNK)、スペースインベーダーPart2(タイトー)・・・。

 当時、細谷小学校には給食費等を除く、不要な現金を小学校に持参していはいけないというルールがあり(当時の筆者は清らかな児童であった)、ここに遊びに来るためには、平日は家に帰ってお小遣いを持ってから、もう一度学校に来なければならないという手間があり、その手間のために土・日曜くらいにしか遊びに来れなかった。
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 そして、あのコスモス!(ご存じない方はネット検索してください)・・・当時からあった自販機が、まだ存在していた。その商品案内部分には1回200円(消費税5%込み価格)とあり、最長で平成26年までは稼働していたらしい。怖くて挑戦しなかったが。
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 細谷小学校から若草方面へ、通学路で歩いた‥っけ?という記憶をたどりに進む。当時はもう2軒、店舗の隅っこにテーブル筐体が少数置いてあるような、小規模な雑貨屋があったが、位置がさっぱりわからない。昭和55~56年のラインナップがヘッドオン(セガ)、トランキーライザーガン(セガ)、カーニバル(セガ)、ペンタ(C)・・・。

 うっすらと覚えていた通学路が、このバイパス完成前の記憶しかないため混乱。バイパス工事中の当時、小学生何人かで、匍匐前進で蓋してあるこの側溝の中を、端から端まで匍匐前進して遊んだのは懐かしい記憶。
今は怖くてできない。
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 当時は田畑だらけで、田んぼやスイカ畑、落花生畑が混在していたが、まったく見当たらない。妻と二人、しばらく住宅街をうろつくが、他から見れば不審者であろう。

 私のノスタルジーも満足し、そろそろ帰ろうか・・・そう思ったとき。ここで現在位置を思い出した! この賃貸家屋は(昭和50年代から残っていたのだ!)、ここには友達が住んでいて、遊びに来た!(R君、お元気でしょうか!?)


そして、駄菓子屋あらかわ、はあった。信じられないことに、まだ経営していたのだ!
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「嘘だろ・・・」自分の目を疑った。言葉にならないというのはこのことだろう。
35年前の記憶が蘇る。

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 店内は、増築された土間の部分にテーブル筐体が複数設置してあった。当時は、手書きでハイスコアランキングが集計されていて、ハイスコアをとると駄菓子屋の「おばさん」から、お菓子やプラモデルが貰えるというシステムであった。
(※昭和50年代前半にこの取り組みは廃止、警察の指導があったらしい・・・)

 訪問時はビデオゲーム筐体の設置はされておらず、すべてエレメカへ置き換わっていた。壁にはカプコンSNKのアーケード用ポスターが残っていたので、おそらく2000年前後までは筐体が置いてあったらしい雰囲気はあった・・・
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 昭和50年代、ここで遊んだゲームのラインナップが、ジャンプバグ(セガ)、ニュージグザグ(C)、ドンキーコング任天堂)、ドンキーコングJR(任天堂)、クラッシュローラ(クラール)、ハンバーガー(デコ)、ハングリーマン(C)、タイムパイロットコナミ)、ゼビウスナムコ)、アミダー(コナミ)、QIXタイトー)、ラジカルラジアル(日物)、ルート16(サン電子)、スクランブル(コナミ)・・・

 当時「おばさん」は一生懸命に働いているけれど「おじさん」はめったに働かない
という印象が子供たちにあった。実際は、駄菓子屋専業で食える訳はないから、夫は普通に勤めに行き、土日に駄菓子屋を手伝いしていただいたのでしょう。当時は勘違いしていて申し訳なかった。

 店番をしていた「おじさん」(すでにおじいさんだが)話を伺う。
私も40半ばの「おじさん」であるので、最初は少し不審(不思議)がられたが、この近所の40年前の話(昔、若草町には営林署ありましたよねー、等)すると信用してもらえたらしく、いろいろとお話を伺えた。
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 奥様であった「おばさん」は数年前に亡くなってしまったこと。
(生前のお写真が、駄菓子屋の隅の方に飾ってありました)
「おじさん」に曾孫さんが先日できたこと。
きなこ餅について、当たりくじをできるだけ多くしていること。
(食べた先のつまようじの先が赤くなっているとあたり、もう一個貰える。挑戦したら、三連続あたりで・・・リタイヤさせていただきました)
商売というよりは、老後の楽しみとしてやられている雰囲気でした。

 「おばさん」の思い出について話した。
「おばさん」の子供が、お店のジュースをもらってくよ!といってお店からもっていくため、まねて飲んだ小さな子が「おばさん」に怒られたので、前述の理由を私から「おばさん」にその場で話したところ、以降は、「おばさん」の子供も(便宜上)お金を払ってもっていくようになったこと・・・など。
 「おじさん」曰く あれ(おばさん)も子供を見ることが好きだったからなぁ・・・
とりとめもない話をする。
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 お体にお気をつけて、と店を後にした。2017年8月5日のことである。
駄菓子屋あらかわの、楽しい記憶が約35年を経て、またひとつ増えたのだ!

 その1年後、何らかの理由があったのか冒頭のとおりである。インターネットで検索しても、閉店の理由は全く分からず、またこのような個人的な欲求で、ご家族にお問い合わせする訳にもいかず。
 シュレーディンガーの猫ではないが、二度と行くことはないだろう、心のふるさと宇都宮、インターネットで不用意に確認しなければ、まだ続いているかもしれないと思うことができた、調べなければよかったと悔やむ次第である。

幸せな思い出はそのままにしておいた方が良かったのだろう。
あらかわよ、ありがとう。